Judging a person does not define who they are. It defines who you are.
人を評価するということは、評価される人の存在価値を決定するものではない。評価する側の価値を定義するものだ。
向けた刃が自分に向いてくるというか、ぐさりとくる言葉です。
私は若いころ学習塾の講師をしていたことがあって、主に大学受験英語の指導をしていました。
いわゆる「赤本」などの過去問から大学ごとの出題傾向を分析したりもしまいたが、よく思ったのが、試験問題は問題を解く側の受験生よりも、問題を作る方の能力が問われるものだということ。
受験生は大半が日本国内の中学、高校で、6年間もの長期間とはいえ、日本人の教師から教科書の英語を習ってきただけなのですから、そこで習った内容を習得できているかを確認する問題か、難関と言われるレベルなら、インプットされたことをアウトプットまでが可能かを確認するのが試験問題として妥当だと思うのです。
ところが何を勘違いしたものか、難解な文学作品を引き合いに出してきて抽象的な表現を読み解けというような出題が時々あって、「一体、生徒のどういう能力を知りたくて、こんなひどい出題ができるのか。」と、受験生諸君に代わって叫んでやりたいと思ったことが時々…いえ、多々ありました。
例えるなら、Led Zeppelin の”Stairway to heaven” を和訳しろといっているような問題だったりします。
出題する側に、正しく相手の能力を評価する能力が欠けていると評価せざるをえません。
「こんな問題を出してくる大学は、こっちから願い下げてやりなさい。」と、そうも言えないところが職業講師のつらいところだったのですが、実際、生徒が、不適切な課題を基に不適切な評価を下されるのではと思えば、憤懣やるかたない思いもしたものです。
また、こんな話があります。
ある女性アナウンサー、エッセイイストが某社の社長と会談をした際、「私はインタビューをするとき、質問には、答えを一つだけ選んでもらうようにしています。」と言うと、某社長、それをいたく気に入った様子で「それは大変に面白い。そうか、私も今後、新入社員の面接では質問には一つだけで答えさせるようにしよう。」とおっしゃったとか。
内心、正しく意味が伝わっていないのではと訝りながら、そのアナウンサー女史、これで評価される入社面接の学生たちが気の毒に思いやられたそうです。
「一つだけで答えてください。」という真意は、相手から何を引き出そうとするためのものなのか、そこで質問者の評価力が問われるのです。面白そうな質問方法だからとか、効率が良さそうだという理由では決してない。
受験、就職…人生のなかで他者に問い、問われる場面はそれだけではありません。人間関係において他人を評価することは日常的に起こります。
「あの人はいい人。」「悪い人。」「ダメな人。」
あなたは何を根拠にそう評価しますか。なぜ評価をするのですか。
また、その逆も言えます。あなたは何を根拠にそう評価されるのですが、あなたが他人からそう評価されなけばならない理由はなんですか。
私たちは他人を評価するとき、評価しているあなた自身がどんな人間なのか、どんな価値基準、評価基準をもって生きているのかが明白になるということを忘れてはならないのです。